解脱は現実
解脱は、「漏尽通(ろじんつう)」とも言います。あらゆる障害から脱するという意味です。これは、皆さんの記憶さえも、皆さんを束縛することはできない境地でもあります。
皆さんは今、現在から思考するのではなく、引き寄せる気運を通じて引き入れた記憶の中で思考しています。このように過去の記憶を通じて思考し、判断する主体を「自意識」と言います。今の皆さんの思考は自意識であり、自意識は即ち過去の産物です。
しかし、解脱は現実です。過去に縛られず、現実を正しく感じ生きることです。それゆえ解脱をせずに生きる人生は、全て過去に生きていることに他ならないのです。
庭前の柏樹子
昔、中国に越州という禅師がいました。 ある日、越州が部屋に入ろうとすると、ある学僧が尋ねました。
達磨が西方から来た理由は何でしょうか?・・・頓悟とはどんなものでしょうか?悟りとはなんでしょうか?
越州が答えました。
庭前の柏樹子
人々は、この言葉の意味を、ありとあらゆる解釈を尽して話します。そして、それらは全て間違ったものです。
事実、この言葉の意味は簡単です。当時、越州の滞在先の庭に柏木がありました。ですから越州は、「庭前の柏樹子」と言ったのです。
まさに「目の前にある現実こそが道である」という意味です。
ところで、昨年(2016年)この柏木が発見されたと中国で発表されました。その場所には、7本の柏木があったそうです。すると人々は、また争い始めました。
「この柏木こそ、越州禅師が話した木だ」「いや、あの木だ」と。 これこそ解脱することのできない自意識たちの苦悩です。どの柏木が重要なのではなく、現実それ自体が真理なのです。
解脱の関門
解脱とは、あらゆる障害から離れることです。そのための第一条件は、障害に陥らない高い『気性』を備えることです。
私はそんなはずないとは思いますが、インドの釈迦は、生後7日目に7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と叫んだと言います。老子もまた、その気勢が優れた人でした。
慧能も学識はなかったかも知れませんが、人を見下ろすかのような高い気性の持ち主でした。その他にも達磨、越州、黄檗、臨済、馬祖、南泉、雪峰に至る、全ての禅師達は、自身を乗り越える高い気性の持ち主でした。
それゆえ高い気性こそが解脱の関門なのです。
そして、このような気性を備えてこそ、現実の困難も乗り越え、自己という愛着からも離れて、「自意識」と「霊魂」の作用を受けずに、宇宙の根本エネルギーを知ることができるのです。そして、このような宇宙の根本エネルギーを体得することを「頓悟」「大覚」「悟り」などと表現するわけです。